2022年12月に実施した対談記事となります。
木村ふみ先生(以下「木村」)と弊社社長 捧和雄(以下「捧」)出会いから始まり、
テーブルコーデート”使い手”の立場と金属洋食器メーカー”作り手”の立場、それぞれの目線で業界や文化の変遷をお話いたしました。
捧
今回はオファーを受けてくださり誠にありがとうございます。
ふみ先生との出会いを振り返ってみれば、長いお付き合いで36年ですね。
初めてお目にかかったのがフランクフルトのメッセですよね。
私が日本人として日本の市場についてお話をするようにというオファーを頂いて、
日本の食事事情、どんな食卓を囲んで、どんな食生活かを外国の方に講演していました。
当時、商社とか、あるいは外国の商品を作っている会社にしてみると、日本はこれから伸びるいい市場だったわけですよね。
一時間ぐらいお話をさせていただきました。本当に心細くて、外国人ばかりがいる中で、たった一人日本人でいらしてくださったのが
捧さんだったんです。それで終わるとすぐにご挨拶いただいたところからはじまってのご縁だったと思います。
木村
捧
そうですね。思い起こすと1986年でしたね。
私ども燕の日本金属洋食器工業組合がジェトロさんのブースを借りて、フランクフルトメッセ「アンビエンテ」に出展したことが始まりでした。当時輸出が好調でありヨーロッパに学ぶため、いろんなデザインとか市場動向とかを勉強していました。それから9年間出展を続けました。組合としても、どうものづくりをしていけばいいのかと展示会を通して模索をしていました。
捧
テーブルコーディネーターという仕事されていると伺って会社におうかがいしました。
そこで私は木村ふみ先生にいろいろ教えていただきました。
輸出から国内に切り替わっていく市場に向けて、新たにメーカーとしの”ものづくり”、新デザインが発信していけるように、お力をお借りできないでしょうかとそういう話だったと思います。そこで先生は五つのスタイルの提案。それに基づいたデザインを市場に向けて発信、新しい出会い作ろうとおっしゃってくださいました。
私がテーブルコーディネートを人に教えるときに5つのスタイルを分けたんです。
「クラシック」「エレガント」「カジュアル」「モダン」「クロスオーバー」この5つに分けたんですね。
しかし、残念ながら燕物産のカトラリーには、これらに合致するものがないと申し上げた記憶があります。
木村
捧
そうでした。とても厳しいご指摘をいただいて。すごい衝撃だったんですよ。
先生に気づかせていただいたところからスタートでした。
これまではお客さまからの要望にあわせ私たちが製造すると流れで。そこまでの変化は分かっていませんでした。
であれば、その5つのスタイルに分けたものを私もお願いして、何を作ればいいんでしょうか?と。
そこでようやく、こういうデザインをしてみますという事を話をして。当時の新商品開発へとつながりました。
カトラリーについて随分認識が変わってきたように思います、1980年代後半から1990年代にかけては、
西洋への憧れが強くなりました。たとえば、テーブルコーディネートが一つの大きなブームに。
それは海外旅行がすごいブームとなり、ナイフ、フォーク類とかを使うということに、
意識が向いてきた時代なんじゃないかなと思うんですけれどいかがだったんでしょうか?
木村
捧
ヨーロッパにはデザインリーダーとなる会社がいくつもありましたから、
新しいデザインがそこからプランクフルト、ニューヨーク、東京と新しいものが広がっていきましたし、
私もそれを学び、提案しお客様からご注文いただいてつくりました。ヨーロッパからのデザイン、流行に合わせて日本人が新しいものを買い求めていく。作り手はヨーロッパに学び、日本の市場はそれを購入し使う。まさにあこがれの時代だったのでしょうね。
ヨーロッパ対する意識とか憧れとかをみんなが持って、日本は豊かな上り坂の時代だった気がします。
海外旅行が盛んになったことと、バブルのちょっと前頃からは、ヨーロッパのスタイルが一つのステータスだった時代ですよね。フランス料理を食べに行ってナイフ、フォーク類をエレガントに使えるということや、
ボジョレーヌーボーが騒がれ、あるいはクリスマスにはホテルがいっぱいになるような、
日本の食事情とか、宴会事情というのも含めてですけれども、西洋にむかっていた時代のような気がします。
また、その頃の結婚式がすごかったですよね。若い女性にとっての憧れの的で、
きれいにドレスで着飾ってフランス料理のフルコースをいただくという。そこで初めてナイフ、
フォーク類をの使いかたを覚えたり、そういうものに出会ったりした時代だったのかなという気がします。
昔の話になりますが、私たちの頃は小学生か中学生でテーブルマナーを学ぶ教室に、学校で連れて行ってくれて、
初めてナイフ、フォークの使いかたを外から使うんですよとか、いろいろ教えていただいたような記憶があります。
木村
捧
そうです。私の子供の頃もそうですね。
父がフォーク、ナイフを作っているのに使えないと困るということで、新潟のイタリア軒につれていかれました。
そこでナイフ、フォーク使って食事をしたことはすごいいい思い出になりました。そんな時代でしたよね。
やっぱりそのナイフ、フォークをはじめとするカトラリー類が私たちの日本人の暮らしの中にこう浸透していく。
その変遷を御社はずっと寄り添って、見守っていたっていう感じだったのだと思います。
木村
捧
実は、ここ最近の流れとしてヨーロッパをはじめ新デザインが出てないんです。
私が7~8年前から、再びフランクフルトメッセなどにまた行くようになりましたが、各社が新しいデザインを出さなくなった。これはなぜそうなったかというと、一つはヨーロッパのインポーターをはじめ、メーカーが合併したり、統合したりして個性がなくなってしまった。デザインリーダーだった会社が一緒になってしまって、そこに本当のデザイン性もないし、みんなが同じようなものを提案してしまっています。
新デザイン、メッセージがないここ数年の間、色を変える加色が登場します。これは陶器から始まってお皿の色を変えることで、カップソーサーもそうですけど、デザインとか形状は変わらないですね。それも毎年見てたうんざりしたんですけど、確かにピンクゴールドとかブラックだとか、金メッキとか変化はあるんですが。
繰り返しになりますが、元のカトラリーというのは何も変わってない。デザイン性はないわけですよね。これは、ずっと今もそれは続いてきてしまっています。
では次にどうなる?のか。私もここ何年かの間、新しいデザインを燕物産でつくれていません。
正直わからない。ヨーロッパのデザイナー傾向も分からないしで、国内もまた変化があり使い方も変わってきてる。しかも今は使いにくいようなものが流行ってると。それも流行でなのしょうけど、経験からいくと長く続くものでもないだろうし、本当に使いやすく、食事に使うものではないだろうなと。
しかし批判はできるけど、残念ながら次に何を作ればいいのか分かっていません。
最初は王道のフランス料理だったのがヌーヴェルキュイジーヌが盛んになっていきます。
カトラリーも最初はクラシックなもので、御社の商品で言うと、「月桂樹」が一番クオリティも高く、
食事の場面としては非常にステータスの高い時に使うものでした。
ヌーヴェルキュイジーヌが盛んになってからカトラリーはクラシックから少しモダンへ動いてきたと思うんです。
木村
捧
コンテンポラリーとかモダンという言葉がずいぶん出てきた時代でしたね。
柄の長いスプーンとか、いろんなものが出始めたっていう時代だと思います。
大きな変化のきっかけは、時代とともに料理の細分化が始まったと思うんです。
例えばフランス料理でも南フランスの料理とか北フランスの料理、イタリアも北イタリアとか南イタリアとかって。
実は細分化されたジャンルによって使うカトラリーや道具が少し変わってきています。
例えば、スープのツボ、あの部分の大きさとか深さとか形とかそういうものがずいぶん変わってきて、
面白いなと思いました。
木村
捧
ドイツのフォークは壺型になってすくって食べやすくなっていて、フランス料理だと刃先が長い、まさにそんな事ですよね。
料理のバリエーションということになると、ヌーヴェルキュイジーヌのフランス料理から、
さらにアジアの料理にまで広がって、ヌーベルシノワというものも出てきて、
スプーンの使いかたにしても。今までは瀬戸物のレンゲを使っていたのが、
金属に変わってきたり、スプーンの上にお料理盛って出したり、
カトラリーの使われ方もだいぶ変わってきたのかなと思うんですね。
そうやってだんだん料理も変わり、カトラリーも変わってきたのではないでしょうか。
2013年に和食が世界のユネスコの無形文化遺産になるわけです。
和食が世界中に広がっていき、和食にまつわる器やカトラリー類にも注目が集まったように思います。
外国人のシェフが、日本の料理に興味を持って、漆のお椀にデザートとか、スープを入れてみたり、いわゆる新しい料理の傾向や、器使いが出てきて、用途限定のカトラリーが求められるようになったという印象があります。
一方で日本の家庭ではカレーライスやパスタを食べるスプーンやフォーク、
紅茶とかコーヒーの時のスプーン、ケーキを食べるフォークとかがすごく求められていたように思います。
特に結婚式の引き出物などの贈答品とかに好まれるようなり、少しずつ暮らしの中に受け入れれた気がします。
木村
捧
コーディネートデザインの変化はどうでしょう?
この劇的にここ数年で変わりましたか?それともあまり変わってないでしょう?
ここのところはコーディネートっていうことがあまり特化しなくなりましたよね。
ただこの数年にコロナ禍の3年間でステイホームが日常の過ごし方の一つの選択肢になった。
家庭の中でも食器を並べて食事をする。それを発信をする時代に変わってきたっていう。
これは今のすごく、大きな変化ということですよね。
木村
捧
そこはメーカーとしてどのように発信していくかということが大切で、
どうやってコーディネートとして、それが家庭の中でもそういうものをやり始めるとか、
テーブルマナー用に食器をどういうふうに使って、そこに楽しめる空間を作れるということになるわけですよね。
昔は日本で作られたカトラリーはナイフは切れないしフォークはサラダのきゅうりが刺さらないって。
これが基準だみたいなお話がありましたけど、それからはどんな工夫をされて現在の技術力になられたんですか?
木村
捧
やはりヨーロッパに学びました。私がドイツwilkinsとの直接貿易を始めたのがきっかけですね。
毎年新しいデザインを作っていくドイツの品質に合わせるということが、燕物産の技術に残った要因です。
あの切れ味を再現するために、どのぐらいの硬度が必要で、どういう風に焼を入れて刃を付けるとか、
必ず仕上刃で切れるようにするとか、フォークの先も四本必ず並んで綺麗でなくてはならない。そこで刺さりやすさが決まるとか、期待に応え続けた技術が燕物産に残ったということですね。
海外で作られたスプーンはバリが取れてなくて、唇を切っちゃったなんて言う話がありましたけれども、
やっぱりその日本のそういうのがなく、技術っていうのはすごいものがあるんですよね。
木村
捧
そうですよね。今お話が出ましたことは聞きますね。
生産国が中国、ベトナムに移り、ナイフは切れない、フォークがささらない、スプーンは使いにくい、と市場でそういったいろんな疑問ができています。今こそ燕の技術力を見直す機会かなと思います。
今市場にあるワンコイン的なカトラリーと御社が作られているものと、
一番大きな違いっていうのはどういうところですか。
木村
捧
仕上げ、磨きでしょうね。やっぱりその側面、こばといいますけれども、そのこばがきれいに磨かれているのか、表面の磨き、それがフォークの歯と歯の間の仕上げでしょうか。品質は何が違うかと言えば、そこだと思います。
高級品の磨きは人の手でおこなっているとお聞きしました。
その技術を持ってる人たちが減っていく、後継者不足の心配は大丈夫ですか。
木村
捧
20年ぐらいそういう問題がありずっと組合から人材確保のために活動してきました。
私どもはおかげさまで20代30代女性が入ってきて磨きをやりたいとか技術プレスをやりたい人たちが集まってきてくれました。技術継承の受け皿ができてきたので、本当にこれからだと思いますね。
そういう若い方が入ってこられて、その磨きをやりたいっていう理由って何なんでしょうね
木村
捧
職人に憧れるということでしょうかね。
10年くらい前はもうそういう人がまったくいなくてどうやって後継者を作るかということが問題でしたけどね。
今磨きとか技術といった、いわゆる職人の持っている技術に対して若い人たちが憧れるっていうことは、
これから先やっぱりこのカトラリーというものも良い方向に変わっていくんじゃないですかね。
木村
捧
そうですね、先生がお話していただいた通り、カトラリーが家庭の中に入ってきて、自分たちの食事の道具として当たり前に存在するようになりました。どういうものが使いやすいとか、好みとか、ようやく食事の文化の中にカトラリーが入ってきた時代だと思います。
この流れを加速させるために、一般の方に向けての啓蒙もどうしていくかが大切だと思います。
啓蒙活動には3つパターンがあって、一つ目は社員教育、二つ目は外に向けて業界教育がすごく大事で、
これをすることによって3つ目の一般の啓蒙につながると思うんですよね。
木村
捧
まさにその社員の啓蒙は大事です。自分たちが作ってる商品にどんな歴史があって、どういう技術を継承してきたのか。その思いがどう伝わって、使われる方にどんな所で使っていただいているのか。
それが使ってくださる方の気持ちによりそって喜んで頂けるものか。どんな風にを楽しんでいただけるのか。作る側として、ひとりひとりがそういう気持ちで作っていかないと伝わらないんだろうなと思います。
最後は本当に、想いと手のぬくもりだといつも言います。金属の冷たいものが、磨き上げて一つのスプーンになり、完成品となったとき自分の手と同じように使える。そこに暖かさがあるというそういうものを本当に、一人、一人が気持ちを込めて作っていけない。これはもう燕物産がこれから生き残っていくために必要なことだと思います。
今回私はずっと、工業製品と工芸製品の違いは何か、あるいはその中間にあるものは何なんだろうって
ずっと考えてたんですが、工業製品っていうのは、同じ形のものを、大量に作ること。
肉を切るときはこのナイフ、スープはこのスプーンって使い方が全部決まってるのが工業製品だと思うのです。
いわゆる画一化され情報とか、データを集めて作っていけるのが工業製品。
それに対して工芸製品っていうのは使い方に正解がないんです。どう使ってもいいんです。
そして使い手の知恵とか工夫でそれが面白く使えるわけです。
工業製品を作っていた燕物産にとっては一つのチャンスだと思っていて、
工業製品と工芸製品の中間のものを作ればいいと私は思っています。手触り、味わい、職人芸、心地の良いもの、
一つしかないもの、名人しかできないもの。本数は少なくても作れるという部門が必要だと思います。
そして一番のポイントは、同じ工場で作られているっていうところで、ここに燕物産のスピリッツが
入ってるわけだから、そこを売りにすればいいんじゃないのかなって思ってるんです。
木村
捧
コロナ禍で、とにかく私どもが一番主力としているホテルレストラン向けが一番動かなくなった。低迷したということです。そこでご家庭に向けて、個人に向けて発信して私どもの商品を提案して買っていただくのはどうかと。
しかし、私どもがホテルレストラン向けに作ってきたものが、果たして家庭に使うカトラリーなのかどうか?
これは一つ、本当に疑問もあります。使い方も従来フルコースで並べてきたものが、カトラリーレストにナイフ、フォークを並べて使い続ける、皿だけ変わっていくスタイルに。その変化を受け入れていかなければならない。
一方で今までの基本をずっと学んできたことを大切に、ナイフ、フォーク、スプーンと並んで、メニューや大きさによって使い分けていく従来のスタイル。最近まで十種類ぐらいを使い分けていたわけですから。本当そういうものが身近にあって使えるような提案もして行きたいなと思います。
捧
私のこれから本当にやりたいことは日本人に合うカトラリー。デザインも、機能性もこだわったものを作り上げたい。これまではフランス、ヨーロッパから伝播したものをそのまま受け継ぐ過程で成長し、技術を学んできました。しかし、それでは通用しなくなっている。
話はまた戻りますけど、4~5年前に日本金属洋食器工業組合でフランクフルトのアンビエンテに展示したんですね。そこでヨーロッパの延長のデザインを持ってて並べたら、Made in ツバメジャパンって何なんですか?と逆に聞かれた。つまり、今はこれまでの延長で物を作っている時代ではない。それは海外のどこでも作ることができる。
日本人として私たちが使いやすいカトラリーを作って、それを今度国内で販売しながら、なおかつそれをヨーロッパに持って行って、Made in ツバメジャパンというのをそこで表現すること。それは私のこれからの人生でやりたいと思ってます。それはどんなものなのかとは、これからの模索になりますね。