燕物産工場物語──赤塚 正敏


 

自動研磨一筋42年。定年後の新たなチャレンジ「レース場」、経験を活かした再雇用で手磨(手仕事?)きで仕上げるカトラリー。

 

 

食器場 レース担当

 

赤塚 正敏

 

(アカツカ マサトシ)1956年9月22日新潟県燕市生まれ。

1980年入社、勤続42年(2022年10月現在)。

 

 

Q : この会社を選んだ理由は?

 

24歳の時、東京の運送屋でトラックの運転手をして、家庭の事情で実家の燕市に戻りました。その時に、燕物産に勤めていた叔父のすすめがあり入社しました。

 

配属されたのは、「自研場」と呼ばれる自動研磨機でカトラリーを磨く作業です。定年まで、この部署で勤めました。

 



 

Q : 現在所属している部署、チームの紹介をお願いします

 

定年後、製品の側面などを磨く「レース場」と呼ばれる部署での再雇用を依頼されました。

通常のレース場の作業ではなく「包装場」と呼ばれる検品や洗浄を行う部署から傷や磨き残しのある製品をもう一度キレイに磨きあげる作業です。

 

レース場では側面を磨くのが主な仕事ですが、この部署は、製品の全ての面の磨き直しですので、自研場での経験があるので選ばれたと思います。

 



Q : 仕事のやりがいをお聞かせください

 

現在の仕事より自研場での仕事の経験が長いので、その時のやりがいは「ありがとう。赤さん(ニックネーム)が磨いた品物キレイだね!! 安心できる」と言われるのが一番の喜びでした。

 

自研場にいた頃は、私の妻が「包装場」にいましたので、自動研磨の仕上がりが悪いと迷惑がかかると思いキレイに仕上げるために「食器場」「包装場」「営業部」それぞれが見ている製品のポイントや安心して出荷できる基準、要望について話し合っていました。

 

自動研磨で消せる傷と消せない傷があります。そうすると食器場のプレス作業でついたバリや穴を事前にチェックして、問題点をそれぞれの親方と話し合いを続けたおかげで、包装場での不良品の削減や営業部の納得した製品の完成につながりました。

 



Q : 先輩から厳しく教えられたことは?

 

私が入社した頃は、輸出の多かった時代です。社員も120~130人くらいで最盛期は180人くらいいたと思います。毎日毎日が忙しくて「早くやれ」と先輩から言われていました。

 

やり方が分からないので先輩のやっている作業を見て、早く現場に行って誰もいない時に一人で練習していました。

 

Q : 先輩・同期・後輩との関わり方を教えてください

 

先ほども話しましたが、入社した頃は仕事の指導は一度もありませんでした。自分なりに仕事のやり方を覚えましたので、これが正しいかどうか分かりませんでしたので、オレはこうやっているという方法を教えていました。

 

私が自研場での後輩指導については、性格、気性を確認してから指導するようにしていました。この方法は、野球の指導員の指導方法です。私は各部署の作業についてよく知っているので、問題が起きるとよく後輩が相談にきてくれます。原因についての経験があるので。

 

最近は、リーダー会議があるので問題が起きると相談しながら解決しているようです。全体の作業を熟知している人が少ないので、問題点を会議で相談することはいいことです。

 

 

 



Q : お客さまとのやりとりの中で、印象深いエピソードをお聞かせください

 

お客さまではありませんが、自動研磨機の材料のメーカーさんとの話です。常に新しいバフや研磨剤の要望を伝えて探してもらっていました。常に同じ材料を使うのではなく、より効率的で仕上がりがキレイになる材料を探しました。

 

おかげで自研場にいた頃は、5人体制で日に10,000本の自動研磨を可能にしました。この話を業者の方に話すと驚いていました。

 

現在のレース場でも新しいバフや研磨剤を探しています。常に製品の品質アップに挑戦していきたいですね。

 

 

 



Q : 仕事とプライベートは両立していますか? 仕事後や休日はどのように過ごされていますか?

 

私の楽しみは仕事が終わって、家でビールを飲むことです。家族は、妻と息子家族。内孫はもう21歳で新潟市内で働いています。外孫の中2が陸上をやっていて、下の小学5年生がバレーボールをやっていますので、こっそり試合を見に行くのも楽しみのひとつです。

 

もう一つの楽しみは、休みに妻と温泉旅行に行くことです。これまでいろいろと苦労をかけてきたので「動けるうちは行こてーと」誘っています。こんな時代なので近場ですが。

 

今は第2の人生ですから、体が動くうちは仕事を続けたいと思っています。