燕物産工場物語──塩原 登


 

燕物産のカトラリーの歴史の半分を知る塩原さんは、プレス一筋54年。定年を過ぎた現在も現場に立ち続け職人ワザで製品を作りつづけています。

 

 

製造部一課 プレス担当

 

塩原 登

 

(シオバラ ノボル)昭和24年2月1日西蒲区中之口生まれ。

昭和39年に燕物産株式会社入社、勤続年数54年。

 

 

 

Q : この仕事を始めたきっかけは?

 

昭和39年、中学卒業時に学校から紹介されたのが燕物産でした。会社に入る条件は寮があって定時制高校に通えることが条件でしたので、入社から昭和43年まで毎日16時30分まで仕事をして定時制高校に通いました。

 

 

Q : この仕事を続けてきた理由?

 

自分の性格にあった仕事だったと思います。人前で話すことも苦手で、無口な方でしたので、機械と向き合って仕事をするのが性に合っていたので続けられたと思います。

 



 

 

Q : 先輩から厳しく教えられたことは?

 

私が入社した昭和39年ころは、輸出の仕事が忙しく会社全体で170〜180人の社員がいました。当時は若いもんが大勢いたので、あいつにだけは負けたくないと仕事は競争でした。

当時は、先輩が手取り足取り教えてはくれませんでしたので、先輩の仕事を見て型の取り付け方や型の押し方、型の研ぎ方を自分でノートに記録しました。

型は一回機械に付けると1ロット10万単位で作り続けましたので、一日中同じ製品を作り続けました。いい製品を作るために先輩からは、押し型の欠けに気をつけることと、よく研ぎなさいと教えられました。といっても、研ぎ方を教えてはくれませんでしたので、先輩の仕事を見て覚えようと見ていると「お前仕事しているのか」とよく叱られました。

 

 

Q : 燕物産という会社はあなたにとってどんな会社ですか?

 

私を成長させてくれた会社だと感謝しています。15歳から27歳まで12年間寮生活をしましたので育ててもらったと感謝しています。

 


Q : 楽しい思い出は?

 

燕物産の寮に12年間入っていました。福島や佐渡、新発田、水原、十日町などさまざまな場所から集まった仲間が大勢いました。いろいろな方言が飛び交ってとても楽しい思い出です。

 

30代に技術指導でマレーシアに3ヶ月を3回。40代前半に中国に1年半行っていました。通訳を入れながらの指導でしたが、人に技術を教えると自分自身も成長していることに気が付きました。日本に戻ってからは、とても自信がついたことを覚えています。

 

 

Q : これから続く後輩に伝えたいことは?

 

みんな自信がないのか、すぐにできたものを持ってくる。私達の頃は、3ヶ月もすると自分で判断しなさいと教えられました。もっと自信を持って仕事をしていただきたいと思います。