燕物産web Museumカトラリーの歴史2

日本の産業に金属洋食器を誕生させた銀座十一屋商店!

スプーン,フォーク,カトラリー
真鍮の材料を鎚起の技術を活かし、金鎚で敲き広げて成形しました。表面の鎚目を炭で研ぎ、全て手作りで仕上げました。スプーンの皿やフォークの刃先は、現在の機械加工より美しい仕上がりでした。

ランプの十一屋商店

カトラリーの歴史を語る上で欠かせないのが、東京銀座にあった「十一屋商店」です。十一屋商店の初代木村新太郎氏は、ランプの露天商で路上を移動しての引き売りをしていました。資金がたまったところで浅草に店を構えました。「十一屋」の屋号の意味は、十を満点とすれば、一はそれ以上を表すということです。当時同じ露店仲間には、服部時計(現在のセイコー)の服部金太郎氏もいたそうです。


明治20年頃には銀座の尾張町一丁目(現在の銀座五丁目)に間口十間の西洋館の新しい店を持つことが出来ました。その当時は、今ほど賑わいのある場所ではなかったそうですが、木村新太郎氏に先見の目があったようです。服部金太郎氏も近くに(現在の銀座四丁目 和光本店)店をかまえています。


明治28〜29年頃には、横浜で二代目木村新太郎氏に出会うことになります。外来品のオークションに行ったり、商館を訪ねたりしていたときに、通称カネの橋※1に近くで、朝早くから店を開き、きびきび働く青年を見かけ、その青年に店を手伝ってもらいたいと思い、熱心に説得して、十一屋商店へ迎えることができました。その後、妹のフジさんと結ばれ、明治38年に二代目木村新太郎を継ぎました。


※1 現在の横浜市中区末広町1丁目、馬車道の南端から関内駅を通過して伊勢佐木方面にぬけると、高速道路をまたいで吉田橋があります。この橋は明治2年に鉄橋として生まれ変わりました。 日本人にとって鉄製の橋は珍しく、「カネの橋」と呼び、横浜名物の1つだったそうです。しかし「カネの橋」と呼ばれたもう1つ理由は、橋を渡る時 に通行料が必要だったからとも言われています。

カトラリーデザイン画
十一屋商店の出荷案内計算書に手描きで書かれた、捧吉右衛門商店に発注されたスプーン・フォーク・バターナイフのデザイン画と思われます。住所が銀座尾張町とありますので、現在の銀座五丁目にお店を構えていた頃のものと思われます。

洋食器屋の十一屋商店

明治39年発行の十一屋商店の広告を見ると営業品目には、西洋食器一式、舶来流行ランプ、硝子器種々などすでに洋食器が主流になっていることが分かります。店を二分し、初代木村新太郎(明治38年隠居、木村浦助)は一生をかけたランプ屋を手放せず、一方進取気鋭の二代目の新太郎(義弟)は洋食器の発展を見越し洋食器部門を受け持ちました。


二代目新太郎氏は洋食器を輸入するとともに、洋食器の国産化を考えていました。しかし、我が国にはようやく西洋文明を取り入れて工業の発展に力を入れ始めたばかりで、近代工業の基礎も浅かったので、我が国で育ててきた職人の技術を活かして外国品を模倣することから始まりました。

江戸時代からの秀でた飾り職人の伝統技術や神輿の飾り職人や刀剣・槍などに関係した金工職人を採用しました。十一屋商店は、それらの職人を下請けにして金属洋食器の製作を試みました。


十一屋商店が洋食器を輸入し、国産にも努力した結果得意先としては、宮内省はもとより、諸官庁、帝国ホテル、他有名ホテル、精養軒、風月堂など有名レストラン、宮家、華族、三井、三菱、住友などの財閥がおもな納入先でした。名声を高めたのは、宮内省御用達になったことで、高級品は十一屋商店に限るという評判に繋がりました。

スプーン,フォーク,カトラリー
十一屋商店がもっとも輝いていた大正11年(1922) 3月10日から7月20日の期間で東京は上野公園と隣接する不忍池で平和記念東京博覧会が開催されました(関東大震災の前の年)。主に殖産興業をテーマとし、生産・近代化をアピールしました。この博覧会の製作工業館に新潟から捧吉右衛門商店がデザイン番号12番のカトラリーを出品し「平和記念東京博覧会 金牌受領」し、お褒めをいただきました。

二代目木村新太郎氏の悲劇

十一屋商店は、繁栄の中で日夜忙しく働きました。二代目木村新太郎氏の努力は並大抵の物ではありませんでした。大正4年に、宮内省からの特別の依頼で、天皇陛下の食事用の魔法瓶ならぬ魔法鍋を作ることになりました。宮中の大膳寮から陛下のところまでの渡り廊下が相当な距離があることから温かいまま召し上がって頂きたいという要望でした。新太郎氏は苦心苦労の結果想い道理のものを完成し納めることが出来ました。時の大膳頭から「君のお陰で陛下が温かいものを召し上がれるようになった」とお褒めをいただきました。


その息抜きに観劇にゆき、脳溢血で倒れてしまいました。幸い命は取りとめましたが、記憶喪失症のようになってしまい再起不能。十一屋商店はもとより、業界にとっても大きな損失でした。幸い経営陣に優秀な人物をそろえていましたので、業務は遅延なく行われ、好景気に即応して、さらに事業を発展させました。


店舗敷地も180坪に広がった堂々たる洋館で、仕入れ部・卸し部が拡充され、小売り部には外交員が30名。宮内省、三井、三菱、住友をはじめホテル、レストランに応対しました。当時続々とできた百貨店の三越、松屋、高島屋、伊勢丹の食器部に口座を持って、そのころはまだ珍しかった自動車に商品を満載して納品しました。また、全国に販売網を巡らして、各都市に特約店を設けました。洋食器業界で全国的な販売組織を持ったのは、十一屋商店が初めてでした。当時の十一屋商店の営業時間は、朝8時から夜10時まで、時には8時、9時頃でも納品に行ったそうです。

スプーン,フォーク,カトラリー
株式会社十一屋商店が発行した株券 金五千園、現在の貨幣価値に換算すると株券1枚で約1,500万円になります。株券の真ん中の上にあるのが、株式会社に変更した時点に変えた新しいロゴマークです。

十一屋商店の繁栄と関東大震災

十一屋商店の指導によって、下請け工場の製品も次第に優秀なものが出来るようになりました。大正10年の博覧会には、十一屋商店は国産の金属洋食器を出品しました。当時はまだ、ヨーロッパのカタログを見て製作したもので、外国の洋食器を模倣する過程は国産化の第一歩でした。十一屋商店は、模倣するに止まらず、日本人に適応させた新考案を多く作りました。


大正7年に第一次世界大戦が終わると、戦争景気も徐々に下り坂になり反動として戦後恐慌が押し寄せました。有名商社の倒産が相次ぎ、物価の暴落等悪条件が重なりました。大正12年9月1日の関東大震災で起きた火災で、十一屋商店の重役も社員も、ただ呆然と焼け跡を眺めるばかりでした。消失を免れた丸の内三菱21号館にあった米国貿易株式会社から仮事務所として場所を提供して頂きその後、尾張町に仮営業所が出来ました。復興景気に営業は順調でしたが、関東大震災で倉庫の膨大な商品の消失、売掛金の回収不能等の影響は大きく立ち直りにはかなり無理がありました。


健全な経営のためにと、大正14年、大口債権者であった米国貿易、日本陶器(現在の株式会社ノリタケカンパニーリミテッド)、佐々木硝子、捧吉右衞門商店(現在の燕物産株式会社)等を大株主として資本金百万円の株式会社に改組して、債務を切り替え、安定した経営に戻しました。

ところが、復興景気は東京、横浜を中心とした一次的なもので、昭和4年の米国に起きた大恐慌の影響で、国内の不況も深刻でした。十一屋商店の経営も思わしくなく縮小せざるを得なくなりました。昭和6年に初代木村新太郎氏が74歳の生涯を閉じました。それから数年後、株式会社十一屋商店は不振を重ね、清算過程に入り、五十余年の歴史に幕を閉じました。


十一屋商店の倒産の影響を受けて、捧吉右衛門商店も経営危機に直面。七代目捧吉右衛門は、一時ノイローゼ(鬱状態)になり、仕事が出来なくなったと伝えられています。

スプーン,フォーク,カトラリー
昭和49年赤坂迎賓館納入品。五七桐御紋付金属洋食器。満州国御紋章入り洋食器の資料は残っていません。このような御紋付き銀食器だったと思われます。

新十一屋商店

昭和8年10月頃、長年にわたる取引先の八代目捧吉右衛門氏が旧十一屋商店の店員の神谷末造氏と共に木村家を訪れました。八代目捧吉右衛門が新しい製品の開発に苦慮していたおり、銀座十一屋のショーウインドで洋食器の陳列を見付けて、捧吉右衛門商店での製造に結び付けたこと。十一屋商店の発展と共に洋食器の燕が誕生し繁栄してきたこと。十一屋商店の暖簾がいまだに捨てがたい価値を持ち続けていることを熱誠あふれる口調で語られました。

木村家側で再出発の決意があるならば、捧商店は商品の提供はもとより、あらゆる面での応援を惜しまないことを数時間にわたって語られたそうです。


いろいろと議論が分かれたあげく木村彰三氏(二代目木村新太郎三男)が、幼き日に訓育を受けた亡き伯父初代木村新太郎の遺志を思い再出発を決意しました。そこで、銀座通りに面した部分を債権者に渡して、裏通りの卸部、仕入れ部のあったところで縮小改組し、木村彰三氏を社長として合資会社十一屋商店として再開しました。復興に関しては、八代目捧吉右衛門氏、佐々木グラスの佐々木源蔵氏をはじめ旧取引先各位、旧十一屋K・S会の方々の外からの暖かい支援のたまものでした。


そして、まもなく銀座二丁目、表通りの西側に小さいながらも店を持つことが出来ました。三越、松屋をはじめ大デパートの御口座も復活し、宮内省御用達の名誉の継続も許されました。

船出早々に新十一屋商店に幸いした最初の出来事は、満州国の誕生です。満州国の宮内省は、洋食器類は、日本の宮内省御用達の関係から十一屋商店に白羽の矢が立ち元宮内省大膳課課長、秋山徳蔵氏の推薦を得て、同国皇室の御紋章である蘭の花の御紋章入りの洋食器類が海を渡りました。(洋食器類の資料は残っていませんが、捧吉右衛門商店謹製と考えられます。)


昭和15年以降統制経済の強化によって、洋食器の製造販売は禁止と言ってもいい情勢下におかれました。創業以来の伝統をすてて、麹町四丁目へ移転することになりました。その後は、ほとんど開店休業の状態を余儀なくされ、その店も戦火に失われ、社長自身も応召されることになり、新十一屋商店も閉店することになりました。


以上出典 : KS談話会 編「洋食器物語」叢文社刊

八代目捧吉右衛門
捧吉右衛門商店、八代目捧吉右衛門の胸像。後ろに見えるのが、屋号「かなきち」の入ったのれん。

番外編

十一屋商店の創業など記録がなく、詳しく分かっていないことがあります。引き売りからスタートしていて、同業者に服部金太郎がいたと言うことから、1881年(明治14年)創業ではないかと思われます。初代木村新太郎氏が亡くなった(1931年明治6年)後に廃業と有ります。その後の合資会社が1933年(昭和8年)以降なので、創業から約52年で第一線の幕を閉じたと考えられます。

その後、合資会社として復活し昭和14年に開店休業状態になり昭和15年以降は統制経済の強化によって新十一屋商店も閉店しました。


十一屋商店が築いてきた金属洋食器の歴史は現代の西洋化に大きく貢献しました。天皇の料理番で有名な秋山徳蔵氏の著書「舌」(中央文庫)で、いかに十一屋商店の商品が良かったかが記されています。商社としての十一屋商店は、ランプ輸入商から始まり硝子器、洋食器、陶磁器などの輸入と国産化は、当時の取引先を見れば日本の礎であることがうかがえます。最盛期のショールームを訪れた西洋人は、自国にもこれだけの商品が揃った店はないと驚いていたといいます。


捧吉右衛門商店(現在の燕物産株式会社)は、燕の商人として、十一屋商店との取引から新潟県燕市に金属洋食器の街としての礎を築いてきました。玉栄堂の鎚起銅器技術が認められ金属洋食器の扉を開き、燕のもの作り技術が最終的に金属洋食器の街を育てました。全てのきっかけを作ってくれた十一屋商店の歴史を知る人はほとんどいません。しかし、カトラリーの歴史を語る上で十一屋商店の功績は外せない歴史の1ページです。

昭和3年、十一屋商店に事務所を置いて東京洋食器同業組合が発足。十一屋商店の宇井善太郎氏が初代理事長に就任、十一屋商店出身者が組合を組織しました。現在、東京洋食器商業協同組合に発展しました。