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新潟県燕市、金属洋食器の街は、こうして生まれた!

 

西洋文明の先駆けとして、日本の津々浦々まで人々の生活に取り込まれてきたのがランプと石油でした。明治11年(1878年)3月25日、電信中央局の開局、明治20年には、石油ランプが電灯にとって代わられました。

この時代に銀座に店を構えるランプ屋が、十一屋商店でした。十一屋商店は、ランプの輸入時に洋食器を一緒に仕入れ、十一屋商店 二代目 木村新太郎氏が洋食器専門店に方向転換を図りました。

 


大正時代に製造された「Laurel 月桂樹」。
大正時代に製造された「Laurel 月桂樹」。

十一屋商店のショーウィンドで見たスプーン、フォーク

 

当時は、まだ外国との直接貿易は少なく、輸入は全て外国の商館を通して行われたため、明治時代の洋食器のほとんどは、外国からの輸入に頼っていました。

しかし、需要が多くなるにつれて、このままでは外国を利するばかりで、我が国の損失であると考え、十一屋商店は下請けを養成して国産化に努力しました。

明治40年、燕物産株式会社(当時、捧吉右衛門商店)八代目 捧吉右衛門が初めて上京し、十一屋商店の店先でスプーン、フォークを見て、これこそ燕の新しい産業に取り入れたいと考えました。当時は、日露戦争の影響での不況、燕の金属産業は煙管や銅製品などの「和」から「洋」へ方向転換を求められていました。

 

 

十一屋商店から金属洋食器の受注!

 

燕市の金属産業の起源は、江戸時代の初期の和釘作りから始まり、明治後半期に、和釘は洋釘に代わり、和釘の技術は、銅器、やすり、煙管等の金属製品の生産へ転換していきました。その後、銅製品は、日用品と、高級美術品として大きな需要に代わり輸出産業としても成長しました。明治末期、銅製品は、アルミに変わり、巻き煙草の普及により煙管の生産も先細り、日露戦争の影響と、全国的な近大工業化による伝統・在来工業の代替えの波にのまれ急激に減速しました。

 

 

明治時代に玉栄堂、今井栄蔵氏が製造した鎚起銅器。捧家とのつながりも深く「宝暦堂」の刻印で捧吉右衛門商店から十一屋商店へ納品されました。
明治時代に玉栄堂、今井栄蔵氏が製造した鎚起銅器。捧家とのつながりも深く「宝暦堂」の刻印で捧吉右衛門商店から十一屋商店へ納品されました。

 

捧吉右衛門商店は、十一屋商店に鎚起銅器の製作で有名な玉栄堂の優品を納めていました。十一屋商店では、吉村安治氏がスプーン、フォークを作っていました(当時は、プレスではなく手作り)。明治44年4月、十一屋商店の社員(野口平治氏)が突然燕に捧吉右衛門を訪ね、「日本石油の内藤久寛さんが洋食器36人分を頼んできた。高級品のため東京の下請け業者にはどうしても作ることができない。銅器の技術を高く評価して、捧氏であれば出来るかも知れない」と頼みに来たそうです。

八代目 捧吉右衛門は、玉栄堂の今井栄蔵氏に製作を依頼し納品しました。これが燕が洋食器を手がけた最初でした。

 

 

本格的な金属洋食器製造の始まり!

 

第一次世界大戦が勃発した大正3年に八代目 捧吉右衛門は上京し、取引先の神田松枝町の小川吉蔵商店で洋食器販売の松喜屋出身の三沢という人が手加工したフォークを見せられました。当時、銀座や新橋に西洋料理の店が増え、ホテルの食堂などでも西洋料理が出され洋食器の需要が増えていました。最初に洋食器を作った頃とは違って一般の人にも洋食が流行しはじめ、洋食器も一般向けが流行ってくるかも知れないと思い、姫フォークを1本見本にもらって帰りました。

 

その後、十一屋商店の磯野倉治氏や鈴木精一氏(新潟出身)のすすめで本格的に、スプーン、フォークの製作に踏み切りました。三ツ沢商店からフォークの見本がきて、石渡喜八商店からスプーンの見本をもらって製作に専念しました。

当時、燕には町工場が約31軒あり、そのうち約20軒の工場がフォークの製作に応じてくれました。最初は、手加工で作っていましたが、やがて手回しの猫プレス、電気動力で刃切り、最終的に坂田五策さんが金型で型を抜く方法を考案しました。

 

 

写真が貴重な時代に撮影された工場の写真。当時は、撮影に時間がかかったため機械も人も止まったまま撮影されました。服装もきちんとしていることから、記念撮影として撮影されたと思われます。
写真が貴重な時代に撮影された工場の写真。当時は、撮影に時間がかかったため機械も人も止まったまま撮影されました。服装もきちんとしていることから、記念撮影として撮影されたと思われます。

  

フォークの製造に道が開けた頃に、東京日本橋の石渡喜八商店からティースプーンの大量の注文を受けました。量産が必要であったことから星野駒蔵氏に協力を求めて燕でも量産が可能なことを実証しました。次は、量産化がむずかしい洋食共柄ナイフでした、ナイフには特殊な技術が必要で、新しい技術の開発が望まれました。

 

大正10年に、ポレール社の代理店の林万芳氏が訪ねてきました。「ポレール社のステンレスを20トン契約してくれないか、契約してくれれば関でナイフを造った技術者を回しても良い」という燕にとって耳寄りな話でした。八代目 捧吉右衛門は契約しました。

 

 

捧三兄弟が取り組んだ金属洋食器

 

本多光太郎博士の研究を元に工業化をすすめていた焼き入れの名人渡辺増也さん、研磨の佐合金三郎さん、機械の西田喜七さんら技術者約10名がナイフ製作の技術指導にやってきてくれました。捧吉右衛門商店では、義弟の栄松さん(玉栄堂の今井さんからの養子)に製造主任を依頼しステンレスナイフの製造に取りかかりました。燕がステンレス製品を造った最初であり、燕で初めてのナイフが完成し、ようやくナイフ、フォーク、スプーンの三つが揃いました。

 

大正12年の関東大震災は、東京を焼け野原と化し、東京人の生活を一変させました。何もなくなったことで思い切った生活の転身が可能で、急激に生活様式に変化が起こりました。人々は、簡便さを好み、和服から洋服、和食から洋食と変化しました。このことが、洋食器普及の大きなきっかけになりました。

 

 


七代目 捧吉右衞門

 

十一屋商店を主とした

国内販売担当

1886年(明治19年)生まれ

1936年(昭和11年)没

八代目 捧吉右衞門

 

輸出担当

1890年(明治23年)生まれ

1984年(昭和59年)没

捧 栄

 

捧吉右衛門商店 製造主任

1890年(明治23年)生まれ

1934年(昭和9年)没


 

 

捧吉右衛門商店の当時の体制は、兄の七代目捧吉右衛門が十一屋商店を主力とした国内向けの販売に、弟栄松が製造に専念し、後の八代目捧吉右衛門は輸出を担当していました。現在の金属洋食器の街を築いてきたのが、捧吉右衛門商店の三兄弟と燕の職人技の結晶でした。

昭和7年、八代目 捧吉右衛門が東南アジアへ新市場開拓に奔走し、香港、マニラ、シンガポール、ジャワ(インドネシア)へ1軒1軒注文を取りました。開拓に最も必要な事は、製品が良質なことでした。日本の特徴は、外国製品と同等で値段が安いことで、どんどん輸出を増加させました。

 

出典 : KS談話会 編「洋食器物語」叢文社刊

出典 : 新潟大学 経済論集 「金属洋食器産業の盛衰と燕市財政」

 


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