web Museumカトラリーの歴史6

金属洋食器の街を支えた彫金師達

 

金属洋食器の歴史は、鎚起銅器の職人により明治44年、手作りから始まりました。大正7年に、製造工程に動力プレスを導入することで、生産量日本一を誇る金属洋食器の街が生まれました。

洋食器の街を可能にしたのが金属金型を彫った彫金師と呼ばれるキセルや鎚起銅器、片切彫師の職人の技術から派生した職人技でした。

 


 

原秀清先生による翁面の金型。八代目 捧吉右衛門とのご縁で、燕に移り住み金型の彫金師として燕の発展に貢献されました。

 

 

1885年(明治18年)福島県会津若松から移住してきたと見られる彫金師、大原浩太郎氏が現在の燕市寿町で若松屋(屋号)と名乗り、文字彫りをしていました。この若松屋に1893年(明治26年)、広田友三郎が当時13歳で弟子入りしました。1900年(明治33年)に修行も終わり、現在の中央通り1丁目に美術彫金「雲月広正」を開業しました。銅器、キセルの模様、煙草入れの金具、金銀の象嵌、鑿(のみ)、鉋(かんな)の刻印彫刻をしていました。雲月広正は燕金属彫刻組合員系図によると、もっとも多くの弟子を養成しました。その弟子のひとり野島広一(野島秋月)が、スプーン・フォークの押し金型に模様を彫りだしたのが、洋食器金型の始まりのようです。

(出典:燕金属彫刻組合創立35周年記念誌より)

 

燕での金型の始まりは煙管の「片打ち」からと言われており、明治の末期には始まっていたと考えられて、東郷、安来鋼といわれる対摩耗焼入性の強い材質が使われました。古い金型工としては、森井梅芳・熊谷勇蔵・吾策さ(坂田)・きいみさ(田巻)・柄沢鉄工所の先代などが記載されています。

(出典:燕商工会議所「前掲書」より)

洋食器の金型製造者として、多くの洋食器創業者により記載されているのは坂田吾策であり、フォークの刃切りやスプーンの型を製造している。(出典:燕 市史 通史編より)

 

 

 

燕金属彫刻組合員系図にのこる系図には、9名の創業者名が残っています。先ほど紹介した雲月広正(広田広正)、海野清、原秀清(燕物産が作ったスーベニアスプーン〈名所スプーン〉の金型を彫りました)、今井秀芳、柄沢吉次郎、早川義信、斉子玉斉、玉川堂、大崎仁の9名です。すでに途絶えた系図もありますが、昭和58年5月に発行された「燕金属彫刻組合創立35周年記念誌」に記された系図に掲載されています。

※資料下記参照

2016年現在は、17名の金属金型彫金師が、燕の金属洋食器を支えています。

 

 

燕金属彫刻組合の系図

 

燕物産でも、大正7年頃より多くの商品が彫金師の技によって生まれています。下記にまとめたのが、彫金師がわかっているカトラリーです。月桂樹をはじめ大正時代に作成されたカトラリーのいくつかは彫金師がわかっていません。

燕市では、金属洋食器をはじめプラスチック製品やハウスウェアなどの金型を作る職人へと広がりを見せています。金属洋食器の街、燕市を支えたのは金型師の技術と、キセルなどの彫り師や鎚起銅器など彫金師の職人技があったおかげです。

 

 

燕物産のカトラリー彫金師系図


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