web Museumカトラリーの歴史9

八代目捧吉右衛門を父に、玉栄堂 今井栄蔵氏を祖父に持つ捧和子さんに燕カトラリーの歴史についてお聞きしました。

 

捧和子さんは、昭和4年9月12日生まれ。八代目捧吉右衛門の3女として生まれました。長男の兄を昭和25年に亡くした後、跡継ぎとして和子さんは、100年続くカトラリー業を支えてきました。


(左)捧和子さん (右)捧和雄 燕物産(株)代表取締役社長 
(左)捧和子さん (右)捧和雄 燕物産(株)代表取締役社長 

Q. 八代目捧吉右衛門さんについて教えてください。

 

七代目、八代目の兄弟は早くに両親を亡くし五代目の吉郎次に育てられました。二人は、ともに15歳から商売を始め燕製品を仕入れて問屋に販売していました。

 

明治44年4月に東京の得意先 十一屋商店の野口さんから高級洋食器36人分の注文を受け、玉栄堂の今井栄蔵氏に作ってもらい納品しました。

その後、大正3年八代目吉右衛門が、東京から姫フォークのサンプルを持ち帰り見本を作って大阪での注文を受け、燕の金属洋食器産業が始まりました。

 

七代目吉右衛門はじっくり考える慎重な人でした。八代目の父は対照的に行動的な人でした。仕事に熱心で1年の半分は家にいませんでした。父は、販路の拡大につとめ、月に2、3回上京していました。仕事のできる昼の乗車は勿体ないといつも夜行で皮の鞄を座席のない時、椅子の代わりにしていました。

 

昭和10年ころ満州への渡航は危険と思われ、近くに住む番頭は両親に反対され誰も同行しませんでした。瀬下さんは佐渡の自宅を離れ、住み込みでしたから、危険を厭わず、家族のように父に同行しくれました。さらに販路を広げ、シンガポールを目指しました。三井物産からの紹介状には「語学の素養なく候えども商才大いにあり」と添えてありました。その頃は気象予報に乏しく台湾沖に台風に巻き込まれ、九死に一生を得ました。船は激しく大揺れし、その恐怖を今さらに想像します。船員よりも船酔いに堪えられたと驚かれたそうです。陛下から御見舞金を下賜されたことは幾度も聞きました

 

仕事に一途だった父は、両親に幼く死別したため、家族という経験が少なく子供達と一緒に過ごすことはありませんでした。家には、内務大臣の母がいるから仕事に打ち込めると言っていました。いつも手帳に何かをメモしていましたから、「手帳巡査」と言われていました。お酒やたばこを嗜まず、宴会ではお茶がでて、芸者さんの踊りが始まると新聞を読みだすので、それからは、芸者さんが新聞を持ってきてくれたそうです。

Q. お母さまについて教えてください。

 

母は、玉栄堂の今井栄蔵の長女でした。父の両親は早く亡くなったため、捧家の料理の味は今井家の味です。一緒に暮らしていた七代目吉右衛門の妻も母の叔母で今井家から嫁いでおりました。代表的な料理としては、大平(おおびら)とよばれている「のっぺ」です。具材の切り方が大きく里芋、こんにゃく、椎茸、貝柱などを入れ、汁をいっぱいにして調理しますので、酒の肴にもなりました。里芋の季節にはよく作りました。他には、五目赤飯でしょうか。母は、何事にも興味をもち、料理の勉強もよくしていました。工夫し上手でした。

 

父がいつもいない分、母は子供達をかわいがってくれましたが、礼儀作法は厳しかった事を覚えています。昔は、燕に旅館がなく、お客さまが東京から10時間もかけて来られるので2、3日滞在され、食事を母が作り接待していました。

Q. ご主人(九代目)の事を教えてください。

 

1950年(昭和25年)1月24日に工場が全焼、そのあとに国税局から莫大な税金。その心労がたたり兄の吉栄が1950年(昭和25年)7月27日27歳で亡くなりました。他に男兄弟がいなかったので、後継ぎとして新潟市の横山家と縁がありました。

 

夫は、4人兄弟の3男として生まれ、家業はたばこ屋で、他に戦後ものの無い時代に布団業も始めて成功していました。

 

八代目吉右衛門も60歳を超えていましたので、主人(後の九代目捧吉右衛門)が婿入りしなければ、この捧家は終わっていたと思います。主人は、「節約とケチは違う」と言って徹底的に節約につとめた人で、51歳で亡くなった七代目吉右衛門によく似た人でした。

 

夫は市場調査でニューヨークへ4ヵ月ほど行っていたときに、商社の通訳を通さずに海外の輸入業者などと直接話し合えないのが悔しいと言っていました。息子の和雄(現在の燕物産社長)をアメリカに留学させたのも、そんな悔しい思いからだと思います。私も教育は大切と思い賛同しました。

 

多趣味な人で茶道、華道などをたしなんでいました、晩年は病むことが多く心が痛みました。2016年(平成28年)1月、92歳で亡くなりました。実家はすでに廃業していましたが、捧家が現在も続いているのは、九代目吉右衛門のおかげです。毎日、感謝をしてお参りしています。

Q. 金属洋食器を地元の産業にまで育ったことについて、どのように考えていますか。

 

工場が全焼しましたが、自宅は残ったので生活はできました。しかし、10年くらいは困難なな生活でした。父も母も決してつらいなどとは言いませんでした。何も無かったように気丈に生活していました。私も子供の手が離れてからは、自宅の奥の仕事場で製品の検品や包装を手伝っていました。

 

食事は生きるための手立てです。食器は欠かせぬもの、それらを作ることは、遣り甲斐のある職業だと思います。やがて、この町の産業に発展したことには、感慨深いものがあります。外で食事をするとき、食器の裏に桜マークの商標があるととても嬉しく、父を誇りに思いました。


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